進化の環境と現代社会の環境があまりにもかけ離れています。
原始の環境には全くなかった、超正常刺激に満ち溢れています。
心はその中で自分を守るために懸命に「正常な反応」をしている。
鬱「病」とか
〇〇「障害」とか
いうレッテルは本当に良くないです。
心の病でも心の障害でもありません。
むしろ
優れた心の資質の現われ。
心を「治す」なんていう発想が
全くの的外れです。
心は自分を守るために
懸命に
「正常な反応」を
しているだけ。
異常なのは
心ではなく、環境の方。
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心は懸命に
「正常な反応」を
しているだけ
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ここ、本当に大事なポイントです。
繰り返しになりますが、
心が異常なんじゃない。
現代社会という
異常な環境の中で、
心は
「懸命に正常な反応」を
しているだけです。
だから、
心を治そうとか
自分がダメなんだとか
という発想から
一旦離れていただきたい。
(もちろん、今の辛さを何とかするために投薬が必要な方はそれは引き続き受けてくださいね)
問題は「心」ではなく、
私たちの心が適応している環境と、
現代社会が
あまりにもかけ離れていること。
・多すぎる人
・知らない人だらけ
・満員電車で密着
・うるさすぎる街
・ネガティブなニュースだらけ
・明るすぎる夜
まさにストレスフルです。
私たちの心は
生き残って子孫を残すための
プログラムです。
それも、数十万年間続いた、
アフリカのサバンナにおける
小集団による狩猟採集生活に
最適化したプログラムです。
心も
生物進化のたまものなんですね。
だから、心は
私たちのご先祖様が過ごした環境に
適応しています。
つまり、私たちの心は
現代社会とは全く違う環境に
適応しているということ。
心は、自分を守るための
警報機でもあります。
ストレスフルな現代社会の環境では、
心の警報機が常に鳴りっぱなし。
例えば、
街を歩いているだけでも
知らない人だらけだから警報機がビンビン鳴る。
知らない人は他部族の敵で
攻撃してくるし、未知の病原体を持っているんです。
家に帰っても
ネガティブなニュースが流れてくる度に
警報機が鳴るし、
夜は明るいままだし物音がするから
心が休まらない。
繊細な心とは、
つまり優れた警報機。
優れた繊細な心の持ち主ほど
その警報機の感度が良くて
疲弊してしまう
というわけです。
心が異常なんじゃなくて、
環境が異常なんです。
じゃあ、
環境を変えればいいのか?
というと、
それはすぐにはできない。
だから、
「心と現代社会のミスマッチ」の問題を
理解して
対処する必要があります。
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心と現代社会の
ミスマッチ
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心と現代社会のミスマッチ。
ひとつには、
既に述べたように、
ストレスフルな環境で
心の警報機が
常に鳴りっぱなしで心が疲弊する。
これは
分かっていただけると思います。
もう一つは
ちょっとややこしい。
心の奥に隠れてるから。
それは
自分の無意識的な「思い込み」です。
「価値観」といっても良いです。
原始社会では「群れの掟」は絶対でした。
もちろん文字は無いので
曖昧で恣意的でしたが、
群れの全員に共有されていて
それを守らないものは
罰せられました。
「群れの掟」は今の「法律」のようなもの。
それが「価値観」。
例えば、
・迷惑をかけるべきではない
・約束は守るべき
・人の役に立つべき
・嫌われてはいけない
・努力すべき
他にも色々ありますが…
「〇〇すべき」であらわされるようなものが
「価値観」です。
で、
私たちはこの価値観を「群れの掟」かのように守ってしまう。
すると、
柔軟性を失って、
そうじゃない自分や他人を許せなくなる。
原始社会のように
すべてが顔見知りなら、
それがうまく機能します。
つまり、
柔軟性を失っても、
全員が同じ価値観を共有しているので
ぶつからない。
むしろ、
原始社会では都合が良い。
でも、
現代社会は同じ価値観を共有していることは、ほとんどありません。
家族であっても、価値観が違いますよね?
そして、
違う価値観同士がぶつかる。
これは、
原始社会では「死」を
意味するくらい大きなストレスです。
原始社会では
群れ全体で同じ価値観(掟)が共有されて、
掟に反する個体を
排除してきたんですね。
これが「イジメ」です。
「イジメ」とは、
イジメられる相手が悪いんじゃなくて、
単に「集団の平均からずれている」というだけ。
だから、
集団の価値観(掟)に反することが「怖い」し、
違う価値観を持っている人に「怒り」を感じてしまう。
どっちの価値観が正しいか、
というのは不毛だし
むしろ「危険」です。
それが高じると
私たちのご先祖様がやってきたように
ある個体を排除(イジメ・死刑)するか、
集団同士が争うか(戦争)。
違う価値観を持った他人が常にぶつかったり、
価値観に縛られて自分が苦しくなる。
これが
心と現代社会のミスマッチ問題。
じゃあ、
どうすればいいのか?
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多様性を受け入れる
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幸い、現代社会はとてつもなく豊かです。
原始社会では
群れに受け入れてもらえないことは、
「死」を意味していました。
でも、
インターネットが発達した今は違います。
自由にコミュニティーを選べるし、
収入を得る方法も多様。
ぶっちゃけ、
一人でも生きていける。
素晴らしい時代です。
だから、
すべてが顔見知りの小さい群れで、
生き残って子孫を残すために必要だった
「掟を守る」ということを
緩めても大丈夫。
つまり、
価値観に縛られるのではなく、
多様な価値観を受け入れる。
多様性を受け入れないから、
ぶつかって辛いし、
鬱とか
ADHDとか
発達障害とか
言われると
「自分が悪いんだ」とか
「自分を治さなきゃ」と
思い込んでしまう。
(自分が辛い原因が分かって、安心する方もいらっしゃるとは思います)
(いずれにしても、「自己否定」はしないでくださいね)
でも、
多様な価値観を受け入れましょう
と
言われたからといって
「いやいや、なんでこっちが受け入れてやらなきゃいけないんだ」
「悪いのはあっちだよね?」
と
すぐにそうなれない方も多いでしょう。
そんな方は、
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思い込みに気付いて
手放す
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ややこしい話ですが、
「多様な価値観」を受け入れるのを邪魔しているのはそれぞれの「価値観」です。
例えば
「迷惑かけるべきじゃない」
と強く思い込んでいると、
迷惑をかける人に腹が立ち、
そんな人を受け入れることができなくなります。
それを緩めていく。
もし、
「私は誰にも迷惑をかけずに生きています」
という人がいたらどう思いますか?
「なんてすばらしい人なんだ!」
とは思わないですよね。
「そんな訳ないだろう?」
と鼻で笑ってしまいませんか?
もしくは、
「なんて傲慢な人なんだろう?」
と思いませんか?
実際は
何をしてもしなくても
それを迷惑に思う人もいれば
それを好ましいと思う人もいる。
そんな風に
価値観を緩めていきましょう。
思い込みを手放していきましょう。
そうすると
他人の価値観も受け入れていきやすくなります。
別に、
好きにならなくてもいいんですよ。
「ああ、あの人はそういう人なんだね」
と
思えれば大丈夫。
そうすると
自分のことも受け入れやすくなって
楽になる。
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「フツー」に
とらわれなくていい
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フツーよりも集中力がない
フツーよりも成績が悪い
フツーよりも気が弱い
それでいいんです。
すべて一人ひとりの個性。
集中力や勉強なんて、
現代社会でしか役に立たないですからね。
注意欠如・多動的な感じが
ちょうどいい。
例えば、
集中力が高くて没頭してしまう人は、
狩りには向いてないです。
後ろからくる肉食獣に
簡単に食べられてしまいます。
長時間座って集中するという現代の環境の方が
異常なんです。
また、
原始社会では勉強や成績なんて存在しないし、
それよりも
仲間と仲良くやる能力の方がずっと重要。
もって生まれた個性に
上下はありません。
どんな人のどんな個性も
活かすことができます。
多動的な人は
狩りで力を発揮できるし、
集中力のある人は
採集や道具作りで力を発揮できる。
気が強い人は
色々チャレンジして、
新しい食べ物の発見や新天地への移住など
につながり、
気が弱い人は
仲間同士のつながりを重視して
気の強い人の暴走を抑える。
多動な人だけでも、
集中力が高い人だけでも、
気が強い人だけでも、
気が弱い人だけでも、
私たち人類は生き残れません。
多様な人がいてはじめて
社会が成り立ち
集団として生き残る力がうまれます。
フツーじゃないのがフツーなんです。
だから
「フツー」とらわれなくていいよ。
フツーよりも集中力がない
フツーよりも成績が悪い
フツーよりも気が弱い
それでいいんです。
すべて一人ひとりの個性なんだから。
そして、
自分のすべてを肯定した上で
自分自身に
このように問いかけてほしい。
より豊かで満ち足りた人生に
していくためには、
この個性を
どのように活かしていけばいいか?
と。
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